History of Kiyosato, and of us.

清里の歴史、私たちの歴史

PAUL RUSCH

清里開拓の父、ポール・ラッシュ博士

「清里開拓の父」「アメリカンフットボールの父」として知られるポール・ラッシュ博士は、清里を語る上でかかせません。関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCAを再建するため1925年に初来日したポール博士は、その翌年から立教大学の教授として経済学や英語で教鞭を執り、アメリカンフットボールの日本での普及に尽力しました。また米作には適さない清里高原で、酪農や西洋野菜の栽培を指導してこの地の開拓を支援しました。1938年には青少年訓練清泉寮キャンプ場として、清泉寮を建設しました。

第2次世界大戦後も戦渦で疲弊した日本農村を復興に導いたポール・ラッシュ博士。「Do Your Best and It Must Be First Class(最善を尽くし一流たるべし)」という理念をはじめとした、ポール・ラッシュ博士の信念は、今も清里のさまざまなところに受け継がれています。

OKIO YASUIKE

清里開拓の父、安池興男氏

奥多摩湖のダム建設によって沈むことが決まった丹波山村や小菅村の人々は、1938(昭和31)年に清里・八ヶ岳地区へ移住し、その地で開拓を始めました。安池氏は当時農林省から県へ出向してきた技官で、農業指導を始めて開拓民を指導しました。「山梨の北海道」とも言われる清里で、寒さと飢えに耐えながら痩せた荒地を開墾する、その過酷さは想像を絶するものでした。それでも安池氏は自らの生活も顧みずに支援を続けました。

やがて清里にも学校や墓地に加え、神社や公民館までもが建設されました。清里の発展は安池興男氏の物質的、そして精神的な支えなしには成し遂げられませんでした。開拓民への資材や知識の提供、分教場建設の協力などをはじめとした安池氏の尽力は、開拓民との絆と共に今もなお語り続けられています。

清里の開拓時代

馬搬と酪農から始まった、小須田家の歴史

昭和25年_美しの森付近切り出した材木の馬搬(正市)
昭和28年頃
昭和31年〜昭和32年頃
昭和32年頃_中央の子供は長男の強、母の乳を飲むのは次男の稔
昭和34年4月頃_荷台の上は稔、座っているのは強
昭和35年8月_八ヶ岳カンティーフェアー輓馬競走に参加二等賞『馬名・五月号』
昭和36年2月_小須田牧場 酪農の基礎牛 (チビ号と正市)
昭和40年8月八ヶ岳カンティーフェアー乳牛共進会一等賞入賞記念小須田家一同
昭和44年8月乳牛共進会出場グランドチャンピオン獲得(ワカイ号)と稔・強
中部日本ジャージー共進会出場清里酪農組合の皆様と
昭和44年_清里第一号の民宿
昭和44年_清里第一号の民宿
昭和44年_民宿の裏の風景(現厩舎の場所)

祖父の小須田正市は、大日向村(現 佐久町)から清里に移住してきた開拓民のひとりでした。この頃、清里への物資の輸送には主に蒸気機関車が使われており、祖父は清里駅についた荷物を村の住人に届ける馬搬を営んでいました。馬搬で生計を立てながら、土地の開墾にも力を入れていました。終戦後は、仕事だけでなく輓馬競走に参加して優秀な成績を納めるなど、小須田家にとってこの頃から馬の存在は特別だったようです。

高冷地で米作に適さない清里では、国の指導もあって酪農を推進する動きが活発になりました。その直接のきっかけとなったのは、昭和28年にこの辺り一帯を襲った大凶作でした。これを機に、開拓民のほとんどが酪農事業を始めました。緑の牧草地に赤い屋根の畜舎、とんがり屋根のサイロ。清里らしい牧場の風景は、この時代に形作られました。祖父もここで酪農業を始めました。最初は手探りでしたが、知識や技術が蓄積されるにつれ、徐々に生産量を増やせるようになりました。昭和40年以降は乳牛共進会で優勝するなど、酪農家として相当の実力をつけていたことがわかります。

清里の観光ブーム

酪農から観光業へ、清里ブームで賑わう

昭和50年_アイオアハウス(乗馬クラブ&民宿)の外観
昭和50年_アイオアハウス(乗馬クラブ&民宿)_室内
昭和50年_牧場全景
馬を調教する稔
馬を調教する稔
耕運機にて
観光客と稔_清里観光ブームの始まり
昭和50年_稔が乗馬牧場をはじめる1号馬(流星号)と流星号の看板
当時の牧場風景
当時の牧場風景
当時の牧場風景
当時の牧場風景
現在のロビン(当時レストラン・ワイオミング)建設開始
昭和61年_レストランとコテージが完成
昭和61年_レストランとコテージが完成
昭和61_年牧場風景と八ヶ岳
昭和60年_たくさんの人達が集まる場所に。
昭和60年_たくさんの人達が集まる場所に。
昭和60年_たくさんの人達が集まる場所に。
牧場風景

昭和40年頃から、高度経済成長に伴うレジャーブームが到来しました。観光業もビジネスになると判断した祖父は、昭和44年に清里第一号の民宿を始ました。そして昭和46年に人気女性誌が八ヶ岳の牧場風景を伝えると、清里ブームに火がつきました。この頃、宿泊施設といえば民宿がメインでしたが、昭和50年頃には、若者の洋風思考によりペンションブームが巻き起こりました。まるでここは原宿かと勘違いしてしまうほど、清里全体が若い世代で賑わいました。

父の小須田稔は、昭和50年に観光乗馬を始めました。近所で行われていた訓練を見て「馬はもっと楽しく乗るもんだろう」と思ったのがきっかけだったそうです。お客さんも安心して乗れるようにと、牧場の馬たちを自分で調教し、昭和50年には乗馬クラブのクラブハウス「アイオアハウス」がスタートしました。当時、西部劇が流行っており、建物も服装もその影響を強く受けていたことが、写真を見ても伝わってきます。

昭和60年にはレストラン・ワイオミング(現ロビン)、昭和61年にはレストランとコテージが完成しました。

競走馬をサポートするビジネス

競走馬の休養・治療・運送事業

昭和58年_トラクター三輪車で遊ぶ牧
現在は本物で作業中
現在は本物で作業中
平成28年_牧場を訪れる山梨大学馬術部

父の代では観光牧場として運営されていた小須田牧場ですが、清里ブームも去った後、「観光業だけではいずれ立ち行かなくなる」と私は考えていました。馬と共に暮らす中で、今後もビジネスを続けるのであれば、もっと大きなマーケットである競馬界に進出していくしかないと思っていました。

2000年頃に競走馬の運搬業を始めてから、2016年からは競走馬の休養施設として、さらには引退した競走馬のトレーニング施設として、この牧場の恵まれた環境を最大限に活用できる事業を運営しています。祖父の代からずっと馬と向き合い、馬に支えてもらいながら暮らしてきました。だからこそ、自分たちの代で馬たちの生涯をサポートできる事ができることが嬉しいです。

馬たちにとって最高のロケーション、清里。祖父の代の開拓者たちが、過酷な環境で土地を耕し、家族を守り、次の代へと引き継いできたこの土地。そんな特別な土地で、これからも馬たちの生涯をサポートしていきたいと考えています。

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