小宮山 修
中学生で馬術を始め、日本やアジアで結果を残す
馬術を始めたのは、中学3年生のとき、父親に勧めらたのがきっかけでした。父親は典型的な「昭和の怖い親父」で、逆らうのが怖いからという消極的な理由で続けていたのですが、その競技のストイックさと自分の相性がよかったのか、途中で嫌になることはありませんでした。トレーニングで技術を磨き、物心がついた頃には競技大会へも積極的に出場していました。
障害飛越競技の選手として国体11勝、全日本選手権6回優勝、釜山アジア大会団体金メダル。輝かしい成績と評価してもらえることがありますが、私自身はこれまで多くの馬たちに支えてもらった、と思うことが多いです。
相棒の死を何度も見届けた、選手から調教の道へ
これまで、一緒に大会に出場した馬が死ぬのを何度も見届けてきました。怪我や病気で引退など、理由はさまざまですが、苦楽を共にした相棒の死は、やはりやるせない気持ちになります。
また、国体選手として18年連続で入賞した記録が2014年で途切れました。県職員と競技選手として二足草鞋の生活は、自分にとっても家族にとっても負担は軽くありませんでした。選手生活からは一旦離れよう、でも馬を調教する仕事はこれからも続けたい、そんな思いを持つようになりました。
代表の小須田のことは、その父親の稔さんが小須田牧場を運営していた頃から知っていました。小須田から、競走馬をリトレーニングして乗用馬にする事業を考えていること、需要があるのですぐにでも始めたいと考えていること、それには馬のことを熟知した調教スタッフが必要不可欠であることを説明され、ホースブリッジに参画しないかと誘われました。
そのころ、現役の競走馬を競技用に調教して国体に出場するケースをいくつか聞いていました。競技からはしばらく離れようと思いつつも、相棒に跨って障害物を力強くしなやかに飛び越えるあの感覚が消えることはありませんでした。また、相棒と呼べる馬と出会えるかもしれない。そんな期待もあって、ホースブリッジに参画することを決意しました。
一頭一頭、馬に乗って向き合う
乗用馬に仕上げるトレーニングは、競技馬のそれと比べると、運動時間や栄養のことでセンシティブになりすぎることはありません。しかし、「どんな方でも安心して乗馬できる」馬に仕上げるためには、馬一頭一頭の性格や能力を理解して、適切なトレーニングを施す必要があります。私の場合、面と向かうよりは乗馬したほうが馬のコンディションがわかりやすいので、乗馬してトレーニングすることが多いです。
競走馬を引退してここに来るのは、若くてやんちゃな馬が多いです。お客さんのところでもちゃんと可愛がってもらうために、まずは礼儀を教えるところから始まります。「止まれ」と言って止まるようになるまで、少し時間がかかる馬もいます。それでも一頭一頭、コミュニケーションを楽しみながら仕事できていると思います。
最近の競走馬を見ていると、体を柔らかく使うことでより速く走れる馬が増えたと感じます。国内の代表的なレースに出馬するような馬はスマートで無駄なことは一切しません。その時代によっても競走馬の特徴も変わるので、調教の仕方ももちろん変わります。
一頭でも多く、希望とチャンスを与えられる場所にしたい
乗馬クラブでも観光乗馬でも、自分たちが手がけた馬がお客さんに可愛がってもらい、新しい舞台で活躍している姿を見れるのはうれしいものです。中には、さらにトレーニングを積んで競技に出場する馬もいますが、競技場で見かけたときは感激してしまいます。
初めて乗馬クラブに訪れたお客さんが、緊張しながらも馬と間近で対面し、最後には安堵した顔で「楽しかった」「また乗りたい」と言ってくれる。そんなふうに喜んでくれる姿を見るたびに、自分たちの活動がまた一つ報われたと感じます。
最近になって、引退した競走馬をリトレーニングして乗用馬にする活動が、日本国内でも少しずつみられるようになってきました。しかし、先進的な欧州と比べるとまだまだ足りません。マーケットの規模が大きく違うので、一概に日本も同じようにとはいきませんが、それでも真っ当にこの問題に向き合う企業の一員として、一頭でも多く次の活躍の場へと導いてあげられるよう、これからもこの事業に携わりたいと考えています。
現役競走馬のご紹介 /